PR

その“団結”、誰のため?同調圧力に流されないための思考法

*本サイトはアフィリエイト広告を利用しています。
円陣 雑記

学校や新入社員研修など、「団結」が重視される場面は少なくありません。
「みんなで力を合わせて」「一致団結して目標達成を」といった言葉もよく耳にします。

確かに、団結には力があります。
でもその一方で、「団結」の名のもとに、理不尽や悪意が正当化されてしまうこともあるのです。

この記事では、私がこれまで経験してきた“団結の裏側”と、それでもなお集団の中でどう振る舞えばいいのかについて、考えてみたいと思います。

団結には力がある

団結という言葉が持つ力は、本来とても前向きで、人の可能性を広げてくれるものです。
それは、教育現場や部活動、新入社員の研修などで「団結の大切さ」が繰り返し説かれる理由でもあります。

誰かと力を合わせて、一人では到底できなかったことをやり遂げたときの達成感。
役割分担によって、自分の得意な部分を活かせたときのやりがい。
仲間の支えがあったからこそ、困難な状況を乗り越えられた――そんな経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。


私自身も、そうした「前向きな団結」の場面に何度も助けられてきました。

大変な仕事に立ち向かうとき、誰かの「一緒にやろう」の一言に救われたこと。
得意なスキルを活かして仲間をサポートし、感謝の言葉をもらったときの嬉しさ。
共通のゴールに向かって、苦楽を共にした記憶――

団結には、人を孤独から救い、モチベーションを生む力があります。
誰かと同じ目標に向かって進むという経験は、自分ひとりでは決して味わえない、特別なものなのです。


だからこそ私は、「団結」を全否定するつもりはありません。
むしろ、本来の意味での団結が育まれる場がもっと増えてほしいと願っています。

けれど、その強い力を持つからこそ、使い方を間違えたり、悪意ある人に利用されてしまう危うさもある。
その両面を理解しておくことが、これから集団の中で自分を守り、誰かを支えるためにも必要だと感じています。

団結の名を借りた“利用”

団結には確かに人を動かす力があります。
けれどその強い力ゆえに、本来の目的とは異なる使われ方をしてしまうこともある――それが、私が社会に出てから直面した現実でした。

ときに「助け合い」や「仲間意識」という言葉にすり替えられながら、
本当は“ただ都合のいい誰か”を必要としているだけの場面も少なくありません。

例1:個人の都合を押し付ける「助け合い」

ある日、職場でこんなやり取りがありました。

同僚
同僚

おーいジョンどぅ。
俺、旅行の買い出しに行きたいから、残ってる仕事やっといてくんない?

ジョンどぅ
ジョンどぅ

えっ、それって完全にプライベートな用事だよね?
さすがに自分の仕事くらいは終わらせてから行くべきじゃない?

同僚
同僚

いいじゃん、こういう時に助け合うのが“団結”ってもんでしょ?

一瞬、耳を疑いました。
「助け合い」とは、お互いに支え合い、困ったときに手を差し伸べることのはずです。
でもこのケースは、明らかに自分の私的な都合を“団結”という言葉で正当化しているだけでした。

しかも、その同僚が他人のピンチに手を差し伸べていたのを、私は一度も見たことがありません。
むしろ「俺関係ないから」と距離を置くことのほうが多かった印象です。

それでも彼は、自分が“助けてもらう側”のときだけ、まるで正義のように「団結」や「助け合い」を振りかざしてきました。


私はこの時、手伝いを断りました。
当然「付き合いが悪い」と言われましたが、今でもその判断は間違っていなかったと思っています。

というのも、こうした“団結の押しつけ”に一度応じてしまうと、
今度はそれが前例となって、「またお願い」「当然のこと」とされてしまうことがあるからです。

「助け合い」と言いながら、実際は片方だけが助けさせられ続ける構図
そんな関係に、団結の温かさや信頼などあるはずがありません。

例2:自己責任と助け合いの“ダブルスタンダード”

ある時、私は仕事の進行が遅れてしまい、挽回するべく上司に掛け合って時間を確保しました。

ところが、そんな中で別の同僚に声をかけられました。

同僚
同僚

おいジョン、同僚が忙しく仕事してるんだぞ、
少しは手伝うとかないのか?

断る余地もないまま押し切られ、彼の仕事を手伝わされることになりました。
結果的に、せっかく確保した挽回のための時間は、自分のためではなく、同僚のために使い切ってしまいました。

作業が終わると、同僚は満足げにこう言いました。

同僚
同僚

やっと片付いたよ。
…で、お前は仕事終わってないの?そんなの自己責任だよな

この瞬間の悔しさは、今でも記憶に残っています。
一方的に「助け合え」と求めてきた相手が、都合が悪くなった途端に「自己責任」と突き放す。
その“ダブルスタンダード”には、言葉も出ませんでした。

助け合いとは本来、双方向の信頼と尊重のうえに成り立つもののはずです。
でもこの時は、私の努力も都合もすべて後回しにされ、最後は「自分でなんとかしろ」と片づけられました。

この出来事は、私が「団結」に抱く不信感の原点のひとつになった気がします。

都合よく使われる「団結」

「団結」や「助け合い」といった言葉は、聞こえが良く、正義のように扱われがちです。
だからこそ、その言葉を“免罪符”のように使って、自分の利益を押し通そうとする人もいます。

たとえば、ある同僚が犯罪をした際、私の部屋を自分の部屋だと偽って警察の捜査を回避しようとしたことがありました。
当然、私には何の関係もないのに、自宅は家宅捜索を受け、プライベートな空間がずたずたに荒らされました。

にもかかわらず、周囲の反応はこうでした。

同僚
同僚

ジョン、お前は空気を読め!
今は揉めるべきじゃないだろ?

加害者側に対しては異常に手厚い「フォロー」がある一方で、被害を受けた私は口をつぐまされ、心のケアも一切なし。
それが、彼らのいう「団結」でした。


なぜ、こんなにも「団結」が都合よく使われるのか。

それはおそらく、“集団の一体感”というものが、誰にとっても居心地のよいものに見えるからです。
そこに馴染んでいれば安心感があるし、波風を立てないことが「大人の対応」として評価されてしまう風潮もある。

けれどそれは、本当の意味での信頼や協力とはまったく違うと思うのです。
他人の犠牲の上に成り立つ「団結」など、美しくもなんともありません。


もしこのような「都合のいい団結」に違和感を覚えたときは、その感覚を無視しないでほしい。
多数派に合わせることが“正解”ではないと気づくことが、自分自身を守る第一歩です。

団結を信じた先にあったもの

私の周りでも、「団結」や「同僚のよしみ」を都合よく使った例はいくつかありました。

たとえば、転職した元同僚が外貨建て保険や新築ワンルームマンション投資を“おすすめ”してきたケースです。

元同僚
元同僚

預金じゃお金が増えないご時世だからね
元同僚のよしみで特別にいい商品教えるよ

ジョンどぅ
ジョンどぅ

いやー助かる!
同僚だから安心して任せられるよ

こういった言葉に惹かれて加入・契約した人たちもいましたが、その後は連絡がパタリと止まったり、断った途端に態度が冷たくなったりと、後味の悪い関係になってしまったことも。

実際に、こういった商品は調べれば「リスクが高い」「勧誘トラブルが多い」とされているものばかりです。
そして、紹介する側には高額なインセンティブが入ることも珍しくありません。

「仲間だから」「信頼しているから」という前提に、営業成績や自己利益が絡むと、そこにあったはずの団結や信頼が簡単に揺らいでしまうのです。

団結はしても、考えることをやめるな

ここまで書いてきたように、団結には確かに力があります。
同じ目標に向かって力を合わせ、困難を乗り越える――それは人間関係の中で得られる、とても貴重な体験です。

だからこそ、私は団結そのものを否定したいわけではありません。
むしろ、本当に意味のある団結が生まれる場面を、私は何度も経験してきました。

でも一方で、その“団結”という言葉を、都合よく使う人たちもまた存在します。
「助け合い」を建前に人に押し付けたり、集団の空気を盾にして他者の発言を封じ込めたり、自分の利益を“同僚”や“仲間”で包み隠して正当化したり。

こうした現実がある以上、私たちは「団結」の名のもとに思考停止してはいけないのです。

集団にいると、つい「周りがそうしてるから」「和を乱さない方が楽だから」と判断を他人任せにしてしまいがちです。
けれどそれは、悪意のある人にとって最もつけ入りやすい隙でもあります。


私自身、こうした経験を重ねたことで、たとえ仲の良い相手であっても、一歩立ち止まって考える癖をつけるようになりました。

「これは本当に“助け合い”なのか?」
「自分にとっても相手にとってもフェアな行動だろうか?」
「集団のためと言われているが、誰の利益になっているのか?」

こうした問いを持ち続けることは、時に「付き合いが悪い」「空気を読まない」と言われるかもしれません。
でもその結果として、自分自身を守れたり、本当に信頼できる仲間との関係が築けたりすることもあるのです。


団結の中でも、自分の頭で考えることを手放さない。
それこそが、集団の力と個人の尊厳を両立させるために必要な姿勢なのだと思います。

今回の所はこの辺で。

スポンサーリンク
雑記
スポンサーリンク
ジョンどぅをフォローする
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました