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勉強が嫌いなあなたへ。将来の自分を救う“学び”の話

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ノート スキルの話

勉強って、どうしてあんなに嫌いになるんだろう?

「勉強が好き」と胸を張って言える人って、実はそんなに多くないと思います。
少なくとも、私はずっと勉強が嫌いでした。

でも、あるとき気づいたんです。
「本当に嫌いだったのは、“やらされる勉強”だったんじゃないか?」と。

この記事では、「勉強が嫌いだった私」が、どうやって“学び”の意味に気づいたのかをお話しします。
もし今、あなたが「勉強なんて意味ない」と思っていたら、ちょっとだけ立ち止まって読んでみてください。

「勉強=学校でやるもの」── その刷り込み

多くの人にとって、「勉強」といえば学校を連想するのではないでしょうか。

平日は授業を受けて宿題をやり、テスト期間には追い込みをかける。
長期休みには、大量の宿題を渡されて、計画的にやるか、最後にスパートをかけるか……。

ジョンどぅ
ジョンどぅ

えっ、数学の宿題プリント7枚?しかも表裏びっしり…他にも問題集が山積みなんだけど!?さすがに無理ゲーでは?

私の高校では、なぜか解説冊子が先生に回収されていて、答え合わせをしても「正解かどうか」しか分からず、解き方が全然理解できませんでした。今でも開設冊子が回収された理由は謎のままです。

他にも、「読書感想文」が苦手だった方もきっと多いのではないでしょうか。
読みたい本を自由に選べるわけでもなく、思ったままに書くと「感想になっていない」と言われ、どうすればいいのかわからない。
本を読むこと自体は嫌いじゃなくても、「評価されるために書く文章」になると、一気に嫌になってしまう──そんな経験、ありませんか?

こうした学校教育の中で、「勉強=型にはめられたもの」「自分のやりたいことではないもの」というイメージが、少しずつ刷り込まれていったのかもしれません。

勉強の“目的”が見えないとき、人はやる気をなくす

「勉強って、なんのためにするんだろう?」

学校に通っていた頃、私は何度もそう思っていました。
目的が見えなければ、勉強はただの苦行です。

でも、視点を変えると、勉強の目的は段階的にこう整理できます。

  • 超短期目線:テストの点数を上げるため
  • 短期目線:内申を良くする・いい成績を取るため
  • 中期目線:志望校合格・資格取得のため
  • 長期目線:将来やりたいことを実現するため

理想的なのは、やはり“長期目線”での学びです。
けれど私の周りでは、中期や短期の目線に縛られている人が多かった印象があります。

例えば中学時代、地元の塾に通っていた友人たちは、学校の定期テストでは高得点を取っていたものの、模試になると極端に成績が下がる傾向がありました。

きっと、その塾では「学校のテストに出る問題」への対策に特化していたのでしょう。
つまり、目の前の点数を取ることだけに集中していたんですね。

勉強嫌いは、どうやって生まれるのか?

勉強が嫌いになる理由は、人によって様々です。
ただ、少し思い返してみると、“好き嫌い”の芽は後天的に育つものではないでしょうか。

例えばこんな感じです

  • 国語は得意だけど、算数は苦手
  • 理科の中でも、化学は好きだけど物理はダメ
  • 勉強はからっきしでも、体育は得意
  • 美術だけやたらセンスがある
  • 全教科そこそこだけど、運動が絶望的
  • なぜか全てが得意な反則人間

こんなふうに、人には得意不得意があります。
自分が好きな教科なら、誰かに言われなくてもスラスラ進められる。
逆に、嫌いな教科は、手をつけるのがつらい…。

でも、よくよく考えてみると、入学して学び始める前から「私は算数が嫌い!」なんて言っている人、あまりいないはずです。
それなのに、なぜ勉強が嫌いになるのか?

私が勉強嫌いになったワケ

小学校や中学校の頃、私は勉強が好きでした。
新しい知識に出会うのが楽しくて、授業は毎日ワクワクしながら受けていました。

田舎の学校だったこともあり、進み方はゆっくりで、じっくり理解するには最適な環境でした。
だから、成績も自然と上位にいて、家であまり勉強をしなくても困らなかった記憶があります。

一方、体育は大の苦手でした。

小学校高学年になると、部活への参加が半ば義務のようになり、野球やサッカーに挑戦させられましたが、ルールもよく分からず、みんなが当然のようにできることができない。
結果、他人の足を引っ張ってしまって、参加するのがつらくなり、最終的に退部しました。

中学でもテニス部に入りましたが、状況はあまり変わりませんでした。
その頃から、体育という科目に対して苦手意識を強く持つようになりました。

高校での“詰め込み教育”に疲弊して

高校は、地元のいわゆる「自称進学校」に進学しました。

この学校、いわゆる「詰込み型」の学校として有名でした。
入学案内にはすでに分厚い問題集が同梱されていて、「入学までに〇ページ解いてこい」といった指示が。

まだ習ってもいない範囲を自力で解くように言われる…正直、面食らいました。

そして、入学後もずっと“予習前提”で授業が進み、宿題の量も多く、土曜も長期休暇も補習と称した授業が続く日々。

ジョンどぅ
ジョンどぅ

“補習”って、授業の補足じゃなくて普通に新しい範囲に進んでないか…?

先生からは「1日10時間は勉強しろ」と度々言われていましたが、私は集中力が持たず、せいぜい3時間程度。
そのうち、徐々に「勉強ってつらい、面白くない」と感じ始めました。

“意味のある勉強”と“ただの課題”は違う

それでも、私は明確に「行きたい大学」「やりたいこと」があったため、そこに必要な勉強だけは全力でやりました。

一方で、「必要ない」と感じた宿題は、正直あまり真面目に取り組めず、先生に怒られたこともありました。
でも、自分のなかで「意味がない」と思っていたので、特に気にしていませんでした。

学校の成績はそれほど良くなかったですが、志望校の模試ではA判定を取り続け、無事に合格。
だから私は、「自分にとって必要なことに絞って勉強する」姿勢でもいいと思っています。

もちろん、皆勤賞はしっかり取りました。サボってばかりではなかったですよ(笑)。

嫌いになった勉強、でも──気づいたことがある

高校に入ってからの私は、正直、勉強がどんどん嫌いになっていきました。

やってもやっても終わらない宿題。
「なんでこれをやるのか」も分からないまま、こなすだけの毎日。
成績を取るためだけのテスト対策。
予習しなければ授業についていけず、でも疲れて集中もできない。

本来、学ぶことってワクワクするはずなのに、いつの間にか“作業”になっていたんです。

でも、そんななかでも私は「行きたい大学」「やってみたいこと」は明確にありました。
だからこそ、そこに必要な知識だけは、たとえ大変でもちゃんと向き合うことができたんです。

すると、不思議なことが起こりました。

同じように机に向かっていても、「嫌だな」と思う気持ちがまったく違う。
意味のない宿題には手が伸びなかった私が、目的がはっきりしている勉強には自然と向き合えていたのです。

このとき私は、はっきりと気づきました。

ジョンどぅ
ジョンどぅ

勉強がつらいのは、興味がないからではない。
やる意味が見えないから、つらくなるんだな。

人は、自分が納得できないものには、力を注ぎ続けることができません。
どれだけ「周りのため」「点数のため」と言われても、自分がそれを必要だと思えなければ、やる気は出ないものです。

逆に、「これは自分に必要なんだ」「将来にきっと役立つ」と思えると、不思議とがんばれます。
たとえ難しい内容でも、「どうしても身につけたい」という気持ちが支えてくれるからです。

つまり、勉強が嫌いになった理由も、そして再び学びに向き合えた理由も、
どちらも「気持ちの向かう先」が違っただけだったのです。

勉強嫌いにならないために、大切なこと

興味の芽を摘み取らない

子どもは、いつだって好奇心のカタマリです。
例えばこんな場面、見覚えありませんか?

ジョンどぅ
ジョンどぅ

ママー、庭でダンゴムシ見つけたよー!いっぱい出てきたー!

ママ
ママ

ちょっと!そんな汚いことしてないで、宿題やりなさい!

こうした会話、決して珍しくはありません。
でも、この「汚いからやめなさい」という一言で、子どもの好奇心は小さくしぼんでしまうこともあるのです。

私自身は、子どもの頃に大図鑑を買ってもらったことで、生き物や自然への興味が爆発しました。
その結果、小さいうちからやたらと生物に詳しい子どもになりました。

たとえ少し高価でも、子どもが本当に興味を持った本や図鑑を与えてあげることは、将来への投資になります。
その反面、小さいころからスマホやゲームばかりに熱中してしまうと、好奇心の矛先が一方向に限定されてしまう可能性も。

使い方しだいでは便利な道具ですが、まだ世界を知らないうちは、「遊び」より「興味のタネ」を多く与えてあげるほうが、ずっと意味があります。

長期の目標を早いうちから意識する

興味のタネが育っていけば、自然と「得意なこと」「苦手なこと」が見えてきます。

そうしたタイミングで、子どもに聞いてみてほしいのです。

将来、どんなことをしてみたい?

このとき、「どんな職業になりたい?」ではなく、「どんなことが好き?」という広い問いかけが大切です。

たとえば「野球が好き」と答えたとしても、プレイヤーだけでなく、解説者、道具の開発者、球場の設計者など、関わり方は無数にあります。

やりたいことが見えてきたら、そこに近づくために「どんな進路があるのか」「どんな力が必要なのか」を一緒に考えてあげましょう。

そして、もしも子どもが言ったことが非現実的に思えても、頭ごなしに否定せず、一緒に現実との“すり合わせ”をしてあげるのが大事です。

勉強を「強制」しない

一番やってはいけないのは、勉強を“強制”することです。

父親
父親

お前は医者の家系なんだから、医学部に行って当然だろう!

こういう家庭もあります。でも、「やらされる勉強」は、好きな科目さえ嫌いにしてしまうこともあるのです。

やる気がなくなり、成績が下がって怒られて、さらにやる気がなくなる――そんな負のスパイラルに陥ったら、抜け出すのは本当に大変です。

もちろん、ときには努力も必要です。
でも、「勉強の主体はあくまで本人」だということを、忘れないでいたいですね。

勉強が嫌いなあなたへ

勉強が嫌いで、授業や宿題がつらく感じるとき。
そんなときこそ、一度立ち止まって考えてみてください。

  • 本当に自分がやりたいことって、なんだろう?
  • 進もうとしている道は、自分の意志?それとも誰かの期待?
  • 昔、少しでも「好き」って思えたこと、なかったかな?

なんとなく周囲に合わせてここまで来たけど、結局自分は何をしたかったんだろう…

そんな後悔をしないように、今、自分のための“学び”を選んでみてください。

たとえ誰かに勉強を押しつけられても、
その先の責任を取るのは、他の誰でもなく自分自身です。

社会人になった今でも──学びは続いていく

私は今、社会人になって何年も経ちました。
正直に言うと、「やらされる勉強」は今も苦手です。

仕事に関係する資格やスキルでも、興味がなければなかなか頭に入りません。

でも、自分が「これはやってみたい」と思ったこと――たとえば簿記やFPの勉強は、苦労しながらも楽しく続けることができました。

それは、「自分の未来に必要だ」と感じられたからです。

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簿記3級を勉強してみた話
FP3級に挑戦してみた話

最後に:学びとは、自分の人生を選び取る力

「大学を卒業したら、もう勉強は終わり」
そんなふうに思っていた時期が、私にもありました。

でも社会に出てから、本当に思い知らされたんです。

ジョンどぅ
ジョンどぅ

“学び”って、終わることのない旅なんですね

会社では、新しい技術や業界知識がどんどん求められます。
制度も変わるし、働き方だって多様化していく。
そんな中で、「学生時代に学んだ知識」だけでやっていくのは、正直、無理があります。

だからこそ、大人になってからも「学び続ける力」が必要なんです。

ただしそれは、テストのための勉強ではありません。
誰かに言われてやるものでもありません。

「自分の人生をどう歩むか」
その問いに、自分で答えていくために必要な“学び”なんです。


たとえば、あるとき突然こんな選択肢が現れるかもしれません。

  • 今の仕事を続けるか、転職するか?
  • 独立して自分で何かを始めるか?
  • 新しい資格を取って、別の道に進むか?

こうした場面で、「自分には選ぶ力がない」と思ってしまうと、人生は誰かに委ねるものになってしまいます。
でも、学び続けていれば違います。

学びは、自分の未来に対して“選択肢”をくれるものです。

私の好きな漫画「MASTERキートン」に、こんなセリフがあります。

人間は一生、学び続けるべきです。
人間には好奇心、知る喜びがある。
肩書や、出世して大臣になるために、学ぶのではないのです。
では、なぜ学び続けるのでしょう?
…それが人間の使命だからです。

浦沢直樹「MASTERキートン 第3巻」より

この言葉に、私は今でも強く共感しています。

勉強が嫌いでもいい。
やらされる勉強が嫌いでも、それは自然なことです。

でも、「自分で選んだ学び」は、必ずあなたの力になります。

あなたの興味、あなたの未来、あなたの人生――
それを誰かに預けるのではなく、自分の足で歩んでいくために。

これからも、あなたらしい“学び”を、選び取っていってください。

今回の所はこの辺で。

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